13デイズ 2000’
28DAYS 2000’
インビジブル 2000’
英雄の条件 2000’
エンド・オブ・ザ・ワールド 2000’
エクソシスト ディレクターズカット版 2000’
グラディエーター 2000’
ゲット・ア・チャンス! 2000’
靴に恋して 2000’
ザ・コンテンダー 2000’
ダンサー・イン・ザ・ダーク 2000’
タイタンズを忘れない 2000’
アレキサンダー 2004’
赤いアモーレ 2004’
海を飛ぶ夢 2004’スーパーサイズ・ミー 2004’
【THIRTEEN DAYS】 米映画 146分 日本ヘラルド
監督:ロジャー・ドナルドソン
出演:ケヴィン・コスナー
:ブルース・グリンウッド1962年、冷戦さなか、ソ連のキューバへの核ミサイル配備阻止のため
米国が行った “海上封鎖” の裏舞台。
戦争回避の13日間の、米国首脳陣の苦悩を、
大味代表監督『カクテル』『リクルート』のドナルドソンが描く、ドキュメンタリー風サスペンス。
2時間強を、飽きさせずに見せてくれる、彼の手腕は評価するとして、
相変わらずのアバウト感。
J・Fケネディの大統領補佐官ケネスを、何故主軸に持っていったのか?
コスナーのキャスティングにも、違和感は否めない。
かの国を動かしていたのは、誰だったのか?
実際に起こったことを、なぞるだけでは映画の持つ “サスペンス” は生まれてこない。
キューバ危機そのものが、充分危機感溢れる出来事だから
知られざる内部事情をなぞられれば、ある程度の内輪の緊迫感は興味深い。
しかし、後から「知る」事は、上質のサスペンスとは成りえない。

J・パクラ監督の『大統領の陰謀』には遠く及ばないこの作品。
時々画面を白黒にして、大仰な音楽を、意味なく流しても、
緊迫感は、受け手には伝わらない事の、よいテキスト。
人がいるからサスペンスが生まれる。
そのことを、もう一度改めて考える事のできる作品だ。
【28DAYS】 米映画 劇場未公開 104分 SPE
監督:ベティ・トーマス
出演:サンドラ・ブロック
:ヴィゴー・モーテンセン
:スティーブ・ブシェミ『チャーリーズエンジェル』を製作総指揮した、配役の旬や、潜在的魅力発見する眼力がスカウト並のトーマス監督作品。
適材適所に、魅力あるキャストを置くと、映画は一段とチャーミングになるものだ。

都会で面白おかしく暮らす、物書きのグエン(ブロック)は、
姉リリィ(E・パーキンス)の結婚式で、酔払い醜態を見せてしまう。
彼女は、アルコール依存症と診断。僻地の更正施設に送りこまれる。
キャラクターが、ツボにはまる。
更正施設での魅力的な、患者達。
なんと言っても厚生施設の所長、
今までのキャラからではどう見ても患者の方が似合うブシェミ。
思わずひざを叩いてしまう、見事な演技。
キャスティングの妙技だ。

この作品、ありがちなグエンの心の癒され方を、描き出していくのではなく、
人生を取り戻していこうとする主人公を、支え癒す脇役を映し出す作品。
だから、結論は急がない。
人の再生はゆっくりと、そうして多くの人の支えが必要なのだな。
【HOLLOW MAN】 米映画 112分 SPE
監督:ポール・ヴァーホーヴェン
出演:ケヴィン・ベーコン
:エリザベス・シュー“死への甘美な誘惑” に憑かれた、ヴァーホーベンと
かれこれ10年以上経つのだが、この早熟な理論家は、
オランダ時代にもしかしたら“悟って”しまっていたのかも?と
最近思い始めている。
ポール・ヴァーホヴェン
『4番目の男』もそうだったが
死に強く惹かれながらも、反面ものすごい恐怖心を感じ取れた、
オランダ時代の作品や、米での初期作品を通して、
死の恐怖からは逃れられない事に、彼は気づいてしまったのかもしれない。
彼は考える。
「じゃぁ、生きているうちに、やりたい事をやり尽くして
ドンちゃん騒ぎして、恐怖心をやりすごそう!」
そんな彼にとって、CGは絶好の道具だったのだ。
評判の芳しくないこの作品。
時代の映画の技術を、フルに使って今までも何度か映画化されてきた
「透明人間」を題材とした作品。
今のCG全盛期の時代作られるべくして作られた作品でもある。
ごく普通の範囲のちょっとプライド高い男が、
外界から存在確認出来なくなる事で、描き出される、
ずれた感覚を、あからさまに目に曝す手腕はさすが。
天晴れというしかない。
誰にでも起こり得る、だけど誰も認めたくはない露悪表現。
こういう部分、やっぱりヴァーホヴェンやクローネンバーグは先駆者だと思う。
しかしバーホーヴェンの志は俗世に埋没する。
「やりたい事」は『氷の微笑』辺りで明確になってはいたが
本能の赴くまま、与えられた新しい玩具を使うがごとく、
前半一気にCGの見世物興業を開いてしまうに至っては、
もはや中年のエロ親父と化している。
浅い人間描写、狂気への的確なアプローチができぬまま、
本能=単なるスケベ では実も蓋もない。
『ロボコップ』で、肉体は死んでも精神の「生」に固執した、
あの弱虫バーホヴェンには、
自分の弱さを映画に託して、共に歩んでこうとする志があった。
この作品で『ロボコップ』の時、あんなに欲しがった肉体を見捨てて、
ベーコン演じるセバスチャン博士は、これからどこへ向かおうとしていたのだろう。
新しい玩具の前で、遊び疲れる日は近い。
【RULES OF ENGAGEMENT】 米映画 130分 SPE
監督:ウィリアム・フリードキン
出演:トミー・リー・ジョーンズ
:サミュエル・ジャクソン
:ガイ・ピアーズ「アメリカ軍国主義バンザイ映画」と切って捨てる人も多い。
W・フリードキンは、白黒つかない “灰色” を描くことに長けている監督だった。
80年代に入って往年の勢いが無くなったとはいえ『LA大走査線』でも、演出の腕は健在った。
なんと言っても70年代の『真夜中のパーティー』『フレンチコネクション』
善悪つかない、 “灰色” の存在を、絶えず提示してくれていた稀有な監督だ。
判断は、観ている者に委ねられる。
灰色部分に触り、感じさせ、考えさせ、論議させる映画がそこにはある。

南イエメン反米デモ。大使館襲撃現場から、大使を無事避難させる目的で、
チルダース大佐(ジャクソン)率いる米海軍が、ヘリで到着。
予想以上の暴徒と化した現場、狙撃され倒れる部下。
チルダースは暴徒の中に銃器の存在を確認。応戦に出る。
それは一般市民をも巻き込む83名の死者を出す結果になる。
交戦規定を守ったというチルダース対、免責に走る国家。
チルダースの弁護に、かつてベトナムで生死を共にしたホッジス(ジョーンズ)が立つ。
陰影のある裁判シーン、たたみ掛けるカットの戦闘シーン。
微妙で不安角度のカメラアングル。
往年の“灰色”を呼び起こす、手腕は間違いなく健在だ。
だけど、ひとつ決定的に違うものがあった。
それは、カーソル補佐官の存在。
善悪の決着のつかない、不明瞭なものの存在の提示を、
たったひとりの “悪役” でぶち壊してしまう。
『エクソシスト』のカラス神父の言い知れぬ混沌とした悩みは、
“今” という時代、もしかしたら切り捨てて生きていかなきゃいけないのだろうか。
単純さが、映画の中にまで要求されてしまう時代になってきた。
『橋』で感じた、ある時ふと足を止めて
考えたたずませる映画が、消滅してしまわないで欲しいと願う。
【ON THE BEACH】 米=濠TVM 131分 プライムウェーヴ
監督:ラッセル・マルケイ
出演:アーマンド・アサンテ
:レイチェル・ウォード
:ブライアン・ブラウン核戦争後の放射能汚染の恐怖を描いたN・シュート原作の二度目の映画化。
59年クレイマー監督、G・ペック主演『渚にて』のリメイク作品。
クレジットにオリジナル脚本があるところ見ると、TV放映ものを、短縮したらしいが、
物語に破綻は感じないし、丁寧な作品に仕上がっている。
中台戦争から勃発した第三次世界大戦。
世界は壊滅し、放射能の恐怖は日々刻々と唯一残された北半球にも迫ってくる。
米海軍潜水艦は、生存者のいるはずのないサンフランシスコからの電波に希望をたくし、
再び地獄と化してるであろう母国アメリカへ向かう。
マルケイ監督は『ハイランダー』とかD・ワシントン主演の『リコシェ』を作った人。
物語を創作するには未だパワー不足だが、凝った絵作りは今風の感覚の持ち主だよ。
クレイマーの『渚にて』も荒廃したサンフランシスコの撮影は素晴らしかったが
40年たって映画にCG登場となった現在、
こういう使い方で、演出されたこの作品のサンフランシスコも必見だ。
奇をてらった演出でなく、正攻法でまじめに描いた核戦争の恐ろしさ。
CG満載の近頃はやりの “世紀末エンド~” 系の中では、希少な人間を描いた作品。
【THE EXORCIST: DIRECTOR'S CUT】 米映画 132分 ワーナーホームビデオ>
監督:ウィリアム・フリードキン
出演:リンダ・ブレアー
:ジェーソン・ミラー四半世紀ぶりに劇場公開となった、名作『エクソシスト』
『悪魔のいけにえ』と対を成すホラーの先駆者。
16分間の未公開追加シーンを足しての劇場公開。
具体的にされない作り手の意図を、観客は尊重していた。
自分なりに分析して、理解に結びつける事に近づくには、
キリスト教そのものへの知識がチョビットでもあった方が、断然面白く、恐怖も深い。

何の前触れもなく、悪魔に捕り付かれてしまった少女リーガン(ブレアー)
恐怖に怯える母親。科学的理由付けのない物への無力。
信仰心を失いつつあった、カラス神父はこの悪魔との直接対決へと、突き動かされていく・・・。
そこには自分の持ち得る知識と、育ててきた感性をフルに使って
読み取らなければならない言い知れぬ恐怖があった。
未公開シーンなぞなくても、十分に恐怖を味わえた。
解釈するということ、こうであったに違いないと自分に納得させること。
映画には、そういう知的な要素が散りばめられてると、思う。
かつての『エクソシスト』には、ふんだんに散りばめられていた。

16分間の追加シーンが、自分にとって必要であったかどうか確認する為にも、
今回の『ディレクターズカット版』と『オリジナル』を、
見比べて欲しいと、願う。
【GLADIATOR】 米映画 ビクターエンタテインメント 155分
監督:リドリー・スコット
出演:ラッセル・クロウ
:ホアキン・フェニックス久しぶりの “リドリー節” 復活だと、感じた。
苦手な “史劇” のジャンル。
即座に思い浮かぶのが、超大作『ベン・ハー』
一本の映画の関連性で、他の作品を再見してみる。
これが、スタンスだから、ビデオは辞められない。
時はローマ時代。
帝位継承争いに巻き込まれ、王の実子コモドゥス(フェニックス)に、妻子を惨殺された、
名将マキシマス(クロウ)
自らも処刑される所を辛くも逃れ、運命に翻弄されながら剣闘士の頂点に立つ。
彼を突き動かしているのは、コモドゥスへの復讐。

R・クロウの熱演、否が応にも盛り上がるH・ジマーのスコア。
冒頭の『七人の侍』を彷彿とさせる凄まじい戦闘シーン。
見応えはタップリ。
だけど苦手な “史劇”
長い(ビデオになると二本組みが多いのも史劇の特徴)
そして、観点(つまり主人公)が、右往左往するのも、史劇。
64’アンソニー・マン監督の『ローマ帝国の滅亡』と同じく
この作品も後半混乱気味。
オリバー・リード
主人公は誰?クロウはどこ?
まして、絶対編集段階で、はしょった場面ありの感。
もしかして、再び出るのか?リドリーの “ディレクターズ・カット” 版
と・・・いらぬ期待までしてしまう。
“リドリー・スコット” は健在を知らしめ、
オリバーリードの遺作となった大作。
【WHERE THE MONEY IS】 米映画 88分 ギャガ DVD:ハピネット・ピクチャーズ
監督:マレク・カニエフスカ
出演:ポール・ニューマン
:リンダ・フィオレンティーノ
:ダーモット・マルロニー物心ついたときから、ニューマンさんはおじさんだった。
ちょっとくたびれて、飄々としたイメージの線の細いこのおじさんは、
どんな時にも、ユーモアを失わない茶目っ気があった。
瞳の色のせいかもだけど、人生をスキップで生きていくような、軽さが、
憧れだった。
自分がおばさんになって、当たり前だけどニューマンはお爺さんになったが、
相変わらず今もウィットに富んだ、この軽さは彼の魅力。
ある日、一人の半分植物状態の老人が、小さな町の老人ホームに移送されてくる。
かつて凄腕の銀行強盗、ヘンリー(ニューマン)。
刑務所病院が満床のため、一時預かりで送られてきたというこの老人に、
看護婦のキャロル(フィオレンティーノ)は、興味津々。
やがて、この車椅子のボケ老人が、仮病じゃないかと疑い始めて
あのテこのテで、様子を探る。
キャロルは、退屈していた。
高校からの付き合いの夫ウェイン(マルロニー)との、何の変哲もない結婚生活。
小さな町、小さな世界、停滞した時間にイラついてたのだ。

仮病ヘンリーが、やがて目を覚ます。
そうして・・・キャロルも自分の人生に、目覚めるのだった。
お話は、細かいシチュエーションを上手に繋いで、飽きる事無くテンポよく転がっていく。
脚本には、折り目正しいオーソドックスさを誇る『サムシング・ワイルド』のマックス・フライが顔を見せてる。
勿論、監督さんは英国人。
『モーリス』と共に日本に大旋風 “英国美男子ブーム” 巻き起こした
『アナザーカントリー』の監督、マレク。
70代のヒーロー、ニューマンを知ってても知らなくっても、
この作品は面白い。
何故なら、ポール・ニューマン75才の演技、その物が素敵だから。
後に続く、C・イーストウッド、ショーン・コネリー、そうしてR・レッドフォード。
アメリカンニューシネマの荒波をくぐった俳優達って
戦中戦後を生き抜いた、老人達のように、
強健で頑固で、しぶとくて輝くものなのだ。
【PIEDRAS】 スペイン映画 135分
監督:ラモン・サラサール
出演:アントニア・サン・フアン
:ナイワ・ニムリ
:アンヘラ・モリーナ 『彼女を見ればわかること』のスペイン版。
こちらは独身の孤独ではなく、どちらかというと中年の孤独。
対比するように、若い女性の孤独も漏れなくフォローしているところが
いかにも芸が細かくて嬉しい。
靴にまつわる5つのストーリー。
“盗んだ靴をはく女”“偏平足の女”“スリッパをはく女”“スニーカーをはく女”“小さな靴をはく女”
女性映画であり、オムニバスであるため、男性にはキツイ映画でしょう。
男性にとって自己投影が全く出来ない作品。
故に、女にはとても居心地がいい作品群である。
異性に理解してもらおうなどという、姑息な欲望など初めからこの作品にはない。
潔いまでにない。
だから登場する男性は全てゲイなのだろう。
それぞれ沸点に達した女達が、気に入った靴で踵を返す風を感じる。
ある種の「開き直りの美学」
自分の足に合う靴を探す、トウの立った女達。
シンデレラ同様、幸せを待っている。
待ち方は靴の数ほどある。彼女達の欲望は、そのまま生きるパワー。
靴を脱ぎ捨てる者、集める者、足を靴に合わせようとする者、履いている靴を大切にする者、
アプローチもまたそれぞれ。
探しつづける事も、現状を維持する事も、女にとっては幸せ探し。
運を天に任せてとりあえず強欲に生き抜くシンプルさが、心地よい。
死んでしまえば、靴はいらない。
【THE CONTENDER】 米映画 121分 アミューズ

監督:ロッド・ルーリー
出演:ジョーン・アレン
:ゲイリー・オールドマン
:ジェフ・ブリッジス
初の女性大統領の誕生か?
阻止するのが、ゲイリー・オールドマン演じる
いけ好かない “男性” だという事を、肝に銘じて鑑賞すればより面白い。
観おわった後、爽快感が残ったのは、多分女性だけ
その女性も、守る物を沢山抱えている、
既婚者が多い様な気がする。
反対派の悪辣な妨害で、窮地に立たせられた初の女性副大統領候補
ハンソン上院議員(アレン)
かつて自分と互角に闘い、彼女に私怨を持つ、
下院議員のラニヨン(オールドマン)に、大学時代のセックスパティー
参加を暴かれ、
彼女が副大統領として適任かを問う、共和党下院議員相手の
査問会で、たった一人彼らと向き合う。
彼女を信頼しようとする大統領にブリッジス。
ナイス・アメリカンの鷹揚さを、漂わせつつ
人間的にも、懐が深い一種の理想的な大統領を演じている。
「政治にプライバシーは持ち込まない」
彼女の信念は、戦う武器を持たない事を意味している。
過去の出来事の、弁明も反論もしないハンソン議員。
その恐ろしいまでの、頑固さは、
既婚女性なら、同調できる波動。
脚本には、かなりの毒が含まれている様な気がする。
同時にそれを救って余りある軽い笑いも配置されてる。
惜しむらくは、ルーリー監督に、
余裕がなかったことだろうか。
「今の私の評価の為、過去の男の数を聞いてどうする!」
ハンソン議員の内心は、こうであったと思いたい。
陰湿につつく男相手に、沈黙を守ることは、最大の女の武器となることを、
女性たちは知っている。
だから、この作品にカタルシスを感じるのは、
たぶん女性だけだろう。
「同じ土俵に乗らない」彼女の潔さを、良しとするも、
「バカらしくて、乗れるか!」と内心憤慨してると見るも
皆の自由。

個性豊かに配置された芸達者な俳優陣を堪能しつつ
「映画もまだまだ男社会なんだなァ」と、認識を新たにした逸品
【DANCER IN THE DARK】 デンマーク映画 140分 松竹

監督:ラース・フィン・トリアー
出演:ビョーク
:カトリーヌ・ドヌーヴ
:デヴィッド・モース
ありきたりな日常を離れて、人々見る夢が “映画”
夢の映画が、夢見る物が “ミュージカル”
現実の日々の生活で、ちょっとくたびれた時
逃げ込んで魂の栄養補給をするのが、 “ミュージカル”なのかも知れない。
この鉄則は破ってはいけない。
映画の登場人物が、ミュージカルに逃げちゃいけない。
その場所は、観客が “観る側” の場所だよ。
視力が衰えて失明間も無い、チェコ移民の貧しいセルマ(ビョーク)
必死で働き、一人息子に遺伝してしまった目の病気の手術代を工面してる。
温かい同僚や、上司、家主や息子との関わりの中、
セルマの人生が、流れていく。
貯めたお金が、盗まれるまで・・・・・。
現実部分の手持ちカメラの “ぶれ” と、ミュージカルシーンの固定カメラの多用の撮影は確かに一見する価値あり。
トリアーは、確信犯的な演出を、毎回見せてくれる。
練りに練ったであろう脚本と、演出、奇抜で自己主張の強い映像は
心を鷲づかみにする。
だけど、前出で言ったように、トリアーは、
夢の映画にとって、決してしちゃいけないことしてしまった。
これは “ミュージカル” ではない劇場を後にして、真っ先に望んだ事。
「帰ったらアステアに逢おう、ジーンを観よう」。


工場のダンス・シーンに・・・機械が動いていない。
『踊らん哉』での船の動力室でのアステアの踊りが見たい群舞にパワーがない。
群舞の織り成す流れを列車が消してしまう。
『ウェストサイド物語』の倉庫シーンを観たい

ミュージカルは、観客が見る夢。
セルマが観る物ではない。
トリアーが、愛してるのは “映画”ではない。
“自分” なのだ。
彼を受け入れるも受け入れないも、見る人の自由。
この後『エレメント・オブ・クライム』から始まる一連の
トリアー探しの旅に出て、
この、ナルシストリアーと、付かず離れずやっていく覚悟を決めた。
【REMEMBER THE TITANS】 米映画 114分 ブエナビスタ

監督:ボアズ・イエーキン
出演:デンゼル・ワシントン
:ウィル・パットン
:ライアン・ハースト
学校物の、直球の筋運び。
一昔前の “スクール・ウォーズ” の乗りだ。
熱血教師対反目する若き生徒を、舞台設定をアメフト。
黒人ヘッドコーチ、ハーマン(ワシントン)と、白人プレーヤー
そうして、公民権運動真っ盛りの1970年代に移して
統合した高校のもう1つの担い手黒人プレーヤーとの
確執を軸に、描き出す、血が熱くなる映画。
人種差別は今も根深い、バージニア州。
政治がらみで、白人と黒人の統合チームのヘッドコーチとなった
ハーマンは、
全ての黒人の “夢” だった。
思うようになじまない反抗的な白人学生。
ハーマンにヘッド・コーチの座を奪われたビル(パットン)の心情。
色々な思惑を織りこんで、
久しぶりの “王道青春スポコンストーリー” は展開する。

自説に間違いはない!と言い切るD・ワシントンの
演説も滑らかで、もうカルトの域。
でも見所は、反目するアシスタント・コーチ演じるパットン。
長い芸歴、彼の絶えず自信なげに漂う瞳が、
「信条」の名の元に、ピタ!と止まった瞬間は号泣。
お気に入りの名脇役だ。

ワラワラと出てくる、若き青年達も美しい。
素朴で、荒削りの演技は、気持ちがいい。
スポコンにはつくづく弱い。
改めて確認してしまった、ストレートな物語。
【MAR ADENTRO】 スペイン映画 125分 東宝東和
監督:
アレハンドロ・アメナーバル
出演:ハビエル・バルデム
:ベレン・ルエダ
:ロラ・ドゥエニャス
:クララ・セグラ
:マベル・リベラ人生これからという矢先、事故で四肢の自由を奪われ、
それから気の遠くなるような歳月を寝たきりで過ごしてきたラモン(バルデム)は、
法に「尊厳死」の選択権を訴える。
映画は、そのとてもデリケートなテーマをあくまでも、
ラモン個人の想いから切り離すことなく、
「人が望み人が選択した命に介入する」事への、理不尽さを浮き彫りにしていく。
それは、命の所有者の権利に留まらず、生とは死とは?という、日常考えない問題にまで
観るものを引きずり込み、考えさせる。
ラモンの訴えはマスメディアを通し知れ渡り、
そのメセージに心打たれた、貧困と不運に嘆く子持ちのロサ(ドゥエニャス)や、
無料で弁護を引き受けた、女性弁護士のフリア(ルエダ)、
尊厳死を支持する団体の会員、ジュネ(セグラ)との関わりの中、ラモンの「望み」が明確に描き出されていく。
彼を長年介護してきた兄夫婦とその息子、父親はその想いに困惑する。
ラモンの見ようによっては傲慢にも映るその「望み」が、
実はささやかな願いであるという事を、監督のアメナーバルは、静に訴えて来る。

中盤、自らも四肢麻痺である神父がラモンの家を訪ね、死を望む事の愚かさや罪を説くシーンで、
兄嫁でありラモンの母親なきあと、介護をしつづけたマヌエラ(リベラ)が
何が正しいか私には分からないが、これだけは解ると進み出て
「あなたはやかましい」
と、言い放った時思わず涙が溢れてしまった。
「尊厳死」をめぐる様々な想い、主張、倫理観を飛び越え、命は「個人のもの」であると
一番理解していたのは、彼女だと感じる。
「願うなら願いのままに」という想いが、紛れもない愛であると、静かにだが強く訴えるシークエンスだ。
「海は命を生み死を与えた」というラモンの見る夢は、その海の上を飛ぶ事。
命そのものを飛び越えたいという事。
命に縛られ、死に悩む事自体が、四肢麻痺よりも彼の自由を奪っていったのかもしれない。
素晴らしい澄んだ瞳を持った、ラモン演じるバルデムが
、『死んでしまったら私のことなんか誰も話さない』で、感銘を与えてくれたピラル・バルデムの息子と知って、
益々スペインの俳優の層の厚さと質の高さに驚いた。
幾度も出てくる彼に不自由を与えた事故の回想シーンは、
あの臨死の「時」が、ラモンにとって永遠に続いていたのだと思わせる。
それは想像もつかない辛さ。
そこに思いを馳せると、薄ぼんやりとしたハッピーエンドが見えて来た。
【NON TI MUOVERE】 イタリア映画 121分
監督:セルジオ・カステリット
出演:ペネロネ・クルス
:セルジオ・カステリット 妻の書いた原作“動かないで”を、夫であるカステリットが監督主演した
不倫にまつわるストーリー。
外科医のティモーティオ(カステリット)は、美しい妻にも恵まれ
幸せな生活を送っていたかのように見えたが、
どこか居場所がないような、満たされない生活を送っていた。
ある日、学会へ向かう途中車が故障し、立ち寄ったバーで、
イタリア(クルス)と出会い、衝動的に強姦してしまう。

やがて、彼はイタリアに身も心も溺れていくのだが・・・・。
キャッチコピーが「始まりは衝動、つながりは欲望、失って気付いた真実の愛」
なのだが、どうもこの「真実の愛」が胡散臭い。
ティモーティオに「愛」があったのだろうか?
作品はなかったという形で締め括っているかのようだった。
愛娘の生死の境目に、何故イタリアの幻影を見たのか?
最愛のものを失う恐怖を、かつてイタリアに抱いた事を思い出したからだろうか?
答えは、否である。
「失う段階」になって、気付いたのは「愛」ではなく「鈍感な自分の身勝手さ」ではないのか?
ティモーティオの関心は生涯「自分」だけだったのだろう。
娘にも妻にもイタリアにも、魂を揺さぶられるほどの愛情、無償の愛など
微塵も抱いた事などなかったのだろう。
彼の心の中には「父親のようにはなりたくない」信念と
「父親のように身勝手になりたい」願望が絶えず凌ぎあっていたに違いない。
彼が「祈る」行為は、たった二回。
それは他者の為でなく「残される事への恐怖」が発露となっているのだろう。
故にイタリアの幻影を見たとしか言いようがない。
恐怖に突き落とされた時、初めて去って行った者を思い起こすという心情は
その「時」、あれは愛だったのだと思い出したように確認する薄っぺらな愛情しか
彼は持ち合わせていなかった証拠ではないのか?
例えロッカーにイタリアの靴を抱えていても、彼の人生に彼女の陰は
15年の歳月、落とされていなかった。
そこが悲しい。
刹那を惰性で生きるこの男性像は、ある意味多くの男性に共通している。
男は「見ない振り」の何と得意な生き物なのだろう。
「思い出のご都合主義」に何と長けているのだろう。
故に愛しいと、異性の自分は再認識する。
男は愛情に対して実に身勝手な生き物であると伝えたこの作品。
男性陣はどうご覧になるのか知りたいところだ。
ペネロペ・クルスは、彼女とは一見信じがたい風貌で登場する。
彼女はやはり只者ではない。
【SUPER SIZE ME】 米映画 98分 クロックワークス
監督:モーガン・スパーロック
出演:モーガン・スパーロック
「マクドナルドを食べつづけたら、本当に体に悪いのか」
この疑問から、監督自らが一ヶ月間三食、ひたすらマックを食べつづける
ドキュメンタリー映画。
・三食食べる
・全てのメニューを食べる
・スーパーサイズを奨められたら、断らない
この三原則の基、実験は開始される。
M・ムーア監督が『ボウリング・フォー・コロンバイン』でドキュメンタリー映画に旋風を巻き起こしてから、
映像の持つ「パワー」の再確認を促された人も多かったろう。
しかしながら、この作品には
ムーアがKマートから弾の一掃を意思表示したような強引さは、微塵もない。
発露となったのは、あくまでも「10代の少女二人がマクドナルドを訴えた」
であり、
その裁判所の見解が「毎日食べると健康に害を与える可能性も猶予」
この映画はここから一歩も脱していない。

中立を死守しようとする、スパーロック監督の心意気が残酷なくらい爽やかだ。
故に、観客は我が身を持ってドキュメンタリーとして映像化するその姿に
「自分で感じ取る真実」を垣間見れる。
与えられた情報は、ハンバーガー同様各々が消化していかねばならない。

「アルコール中毒が肝臓に与えるダメージと、同じ位の効力が
マクドナルドのハンバーガーにはある。」
医師達も予見できなかった、この事実はある意味恐怖だ。
エンジェル・アット・マイ・テーブル 1990’
コントラクト・キラー 1990’
グッドフェローズ 1990’
ジェイコブス・ラダー 1990’
推定無罪 1990’
ジャーニー・オブ・ホープ 1990’
黄昏に瞳やさしく 1990’
愛しい人が眠るまで 1991’
彼方へ 1991’
青い凧 1993’
風の丘を越えて/西便制(ソピョンジェ) 1993’
サンドロット/僕らがいた夏 1993’
潮風とベーコンサンドとヘミングウェイ 1993’
デーヴ 1993’
トリコロール/青の愛 1993’
トリコロール 赤の愛 1994’
小便小僧の恋物語 1995’
死んでしまったら私のことなんか誰も話さない 1995’
真実の囁き 1996’
運動靴と赤い金魚 1997’
エイミー 1997’
オープン・ユア・アイズ 1997’
桜桃の味 1997’
スウィート・ヒアアフター 1997’
ガタカ 1997’
八月の鯨 1987’
RONIN 1998’
アナとオットー 1998’
IN DREAMS 1998’
アフリクション 白い刻印 1998’
愛する者よ、列車に乗れ 1998’
ウェイクアップ!ネッド 1998’
うちへ帰ろう 1998’
ヴィクトール 小さな恋人 1998’
エドtv 1998’
いつか来た道 1998’
オール・アバウト・マイ・マザー 1998’
黒猫・白猫 1998’
ゴッドandモンスター 1998’
木洩れ日の中で 1998’
奇人たちの晩餐会 1998’
シャンドライの恋 1998’
シン・レッド・ライン 1998’
セレブレーション/ドグマ#1 1998’
アンドリューNDR114 1999’
アンジェラの灰 1999’
イギリスから来た男 1999’
アイズ・ワイド・シャット 1999’
アメリカン・ビューティー 1999’
25年目のキス 1999’
アイアンジャイアント 1999’
インサイダー 1999’
ことの終わり 1999’
風の行方 1999’
氷の接吻 1999’
クッキー・フォーチュン 1999’
ギャラクシー・クエスト 1999’
彼女を見ればわかること 1999’
風が吹くまま 1999’
サイダーハウス・ルール 1999’
最果ての地 1999’
シビル・アクション 1999’
ストレイト・ストーリー 1999’
遠い空の向こうに 1999’
トイ・ストーリー2(Anime) 1999’
トゥルー・クライム 1999’
ツイン・フォールズ・アイダホ 1999’
太陽は、ぼくの瞳 1999’
【AN ANGEL AT MY TABLE】 ニュージーランド 158分 東宝

監督:ジェーン・カンピオン
出演:ケリー・フォックス
:アレクシア・キオーグ
:カレン・ファーガソン 希望的観測なのだが、この世の中には「凡人」などいない。
みんな何かしらの才能を持って、この世に生れ落ちている。
自分でも気が付かないかもしれないが、「自分だけの才能」を持った「才人」だ。
それを、「個性」と呼ぶのかもしれない。
自分の中だけで消化しきれず、溢れ出る人を「天才」と呼ぶ。
それゆえに、
彼らの「個性」は、強烈だ。
『ピアノ・レッスン』のニュージーランドの女流監督J・カンピオンの
故郷と女性への限りない賛歌のこの作品の主人公、ジェーン・フレイムも
また、強烈な個性を持った作家なのだ。
物語は、3部作。
「島へ」フレイム一家がニュージーランドへ移民してきて
貧しいながらも、暮らしていく様子。
鳥の巣のような髪の毛の冴えない女の子、ジェーンが
文字に目覚めていく過程を、描き出す。
第2章が原題の「エンジェル・アット・マイ・テーブル」
変わり者で、内気なジェーンが、姉の死をきっかけに神経が磨り減り
やがて8年以上、精神病院へ入院。
その中で、作品を発表していく。
そうして「鏡の国からの使者」
スペインへ文学留学し、失恋、流産から、
もう一度自分を見つめる為、故郷のオマハへ戻る。

実在するジェーンの、悲しみや苛立ちが
3っつを通してみて初めて、理解できた。
強烈な「個性」は、時として外部との軋轢の中、
内へ内へと篭り、自分の存在その物を否定してしまう。
その悲しみは、計り知れない。
閉じ込められた「個性」は「文字」という媒体を通して
こぼれだしていく。
カンピオン監督は、過分に女性にありがちな一人よがりな描き方で
この女流作家の半生を、フィルムに映し出す。
カンピオンの「ひとりよがり」も、またひとつの「才能」

急な斜面に、チョットすまして本の装丁用の写真を撮る
ジェーンの姿に、胸が熱くなる。
彼女は自分の「個性」を「溢れ出す才能」として、受けとめようとする。
それは誰にも邪魔できないものだと、教えてくれる。
「人と付き合うのが苦手なら、付き合うな」
彼女が精神科医からこの言葉を聞いたときの、微笑が
いつまでも続くようにと、願う。
【I HIRED A CONTRACT KILLER 】 フィンランド/スウェーデン 80分 東宝
監督:アキ・カウリスマキ
原作:ペーター・フォン・バック
出演:ジャン=ピエール・レオ
:マージ・クラーク
観始めてから、すぐに奇妙な感覚を味わった。
居心地の悪いような、耳の裏がかゆいような・・・・。
モゾモゾとした感じ。
前にもあったなァ~・・・こう言う映画・・・・。思い出せない。
物語は、ロンドンの水道局に15年勤めるフランス人、アンリが
ある日突然、くびを言い渡される場面から始まるんだ。
この主人公アンリを演じるのは
トリュフォーの秘蔵っ子『大人はわかってくれない』の
おっさんと化したジャン=ピエール・レオ。
カウリスマキ作品の常連だ。
恋人も友人もなく、仕事も失ったアンリ。
元々生きる希望も夢も持ち合わせていない彼は
当たり前のように自殺を図る。
臆病で不器用なアンリは思うように死ねない。
そこで、コントラクト・キラー(殺し屋)を雇う羽目になる。
自分で自分の殺しの依頼をする訳だ。
ここら辺から、微妙な違和感、居心地の悪さが、ドンドン膨らんでいく。
画像からその居心地悪い光線がでているのでは。と
TVの微調整をいじろうとして、気がついた。
「バグダット・カフェだ!」

全ての色がハレーションを起したような映像。
しかも色そのものが、自分には普段観なれていない色合。
壁の色、食器の色、ガウンの色
そしてその色の組み合わせ。
(安ホテルのフロント周りなんかは最高の不安定色)
淡色系日本人がアメリカナイズされた目に、
カウリスマキの見せてくれる画像は、とても居心地が悪い。
ちょうど、屋台の夜店で売っているおもちゃのサングラスかけたような感じ。
浮き上がったお尻のままで、最後まで一気に見る。
素敵な違和感の中で奇妙な物語に付き合っていくうちに、
いつかは慣れるだろうと言う、甘い期待が裏切られていく。
カウリスマキが狙っていたのは、この感覚なのではないだろうか。
観終わった時の脱出感。
この映画の世界に留まってはいけないというメッセージを受け取って
ビデオの電源を切るのだ。
【GOODFELLAS】 米映画 145分 ワーナー
監督:マーティン・スコセッシ
出演:ロバート・デニーロ
:ジョー・ペシ
:レイ・リオッタ『アフター・アワーズ』『タクシー・ドライバー』
そして、スコセッシ3本目がこの割りと地味目のマフィアもの。
『ゴッドファザー』の、ロマンを求める人にはちょっと一味足りないが、
それを補って余りある、映画技法の全てがここにある。
映画の技法と、語る物語が噛み合わないと、快感は生まれてこない。
この『グッドフェローズ』は、絶品の出来だ。
近作『クンドゥン』より更に長い作品であるにもかかわらず、
一機に見せてしまうスコセッシの手腕は、唸るものがある。

舞台は1970年い幕を開ける。
このオープニングは、作品の始まりでも到着駅でもない。
物語の要、そして転機の場面。
ここを始発点にして、幼い頃からマフィアに憧れたヘンリー(リオッタ)の、過去と未来が語られる。
ヘンリーに慕われる、街を牛耳るボス、ジミーに余裕演技のデ・ニーロ。
その片腕で、切れると見境つかないトミーに、作品中、最も素晴らしい演技を披露するジョー・ペシ。
モノローグの切り替わり。
(主人公ヘンリーと、彼の妻、R・ブラッコ演じるカレン、二人の独り言)
全く異なるシークエンスへの、挿入歌の雪崩れ込み。
すべるようなカメラワークと、考えられ整理された構図。
多すぎず、少な過ぎず、要所収めるストップモーション。
レストランで給仕がテーブルを運ぶシーンは背筋が寒くなる。
観客達は、そのテーブルと一緒に席へ着く。
終盤になっても、手は緩めず気も抜けない、ドキュメンタリータッチが、幅を利かせ始める。
オープニングが、物語の中版だった為に、再びその場面に出会った時、観る者はこれから起こる “何か” に向けて好奇心を絞り込む事が出来る。

俳優陣の素晴らしい演技。
卓越した映画技法。
すべるようなカメラワークとストーリーテリング。
マフィアの日常を映し出しながら、まさしくそこにあったであろうアメリカの裏街道を
臨場感溢れる語り口で歩く事が出来る。
最初と最後、お決まりの「これは実話に基づく・・・」というログが吹っ飛ぶくらいの、リアルな男の人生が、ここにある。
【JACOB'S LADDER】 米映画 113分 東和ビデオ

監督:エイドリアン・ライン
出演:ティム・ロビンス
:エリザベス・ペーニャ
:マコーレ・カルキン
:ダニー・アイエロ
『シックス・センス』を劇場で観た時、真っ先にこの作品思い浮かんだ。
あの映画の結末は、珍しくない。
だからって、驚かなかったわけじゃないけれど。
ベトナム帰還兵のジェイコブ(ロビンス)今は郵便局に勤めてる。
彼は最近とても体調が悪い。
実体験と夢が交互に彼の目の前の現われるのだ。
気味の悪い感触は、やがて政治的陰謀をも臭わせ・・・・。
観客達は右へ左と揺れ動かされ、恐怖の地獄巡りの果て、驚愕の結末を迎える。
心臓の弱い人は、止めておこう。
この脚本を書いたブルース・ジョエル・ルービン。
この作品のあと『ゴースト/ニューヨークの幻』
そして『マイ・ライフ』、『ディープインパクト』の最終稿を仕上げている。

一貫して “生と死” を見つめ続けるハリウッドの中で貴重な脚本家。
この頑固なまでのこだわり方が、いつまで続くかわからないが
『シックスセンス』のM・ナイト・シャマラン監督も
そういうこだわりを持ち続けて欲しい。

あの世とこの世の狭間を覗き見したい人。
この二人の脚本家の名前は覚えておいても損はない。
【PRESUMED INNOCENT】 米映画 127分 ワーナー

監督:アラン・J・パクラ
出演:ハリソン・フォード
:ボニー・ベデリア
:グレタ・スカッキ
冒頭、アメリカの正義、H・フォード演じる主席検事ラスティのモノローグで幕を開ける。
陰鬱で重々しく、まるで呪文のようなこのつぶやきが、
本当の意味で理解できるのは、たぶん結婚を継続させてかなり経たなきゃ解らないだろう。
と同時に戦慄で鳥肌がたつ。
『コールガール』でも書いたが、パクラ監督は苦手だ。
突き放された孤独の中に、観客を置き去りにして行くから。
人間の愚かさや、身勝手さ、狡さや、弱さを
提示するだけで、解決して行かない。

ある日、検事ラスティ(フォード)の同僚キャスリン(スカッキ)が
自宅でレイプされ何者かに惨殺されてるのが発見される。
おりしも、判事の選挙戦真っ只中。
上司のホーガン(デネヒー)は部下のラスティに調査を依頼。
ラスティはキャスリンと肉体関係にあった。
キャスティングの失敗か?と思うようなH・フォードの役柄。
彼が犯人のはずがないという、安心感がもたらす “無罪” への重み。
推定無罪という事は、証拠がなく真犯人が解らなかったら
裁かないということ。
不利な証言の中、裁くべき法の番人が、裁かれていく。
パクラ監督は、非常に手堅い演出で、この事件を観客に追わせる。
司法の内情が、これまた人間社会の醜い争いと、
同じだという事を、暴いていく。

ラスティの妻、バーバラ(ベデリア)は、夫の背信を知りながらも、彼に寄り添い裁判に突入する。
裁判劇になってからが、面白い。
「愛人関係」という歴然たる真実はラスティの、そして妻バーバラの心の中奥深くに隠蔽され、あくまでも、証拠がないという事で、推測の域を出ない。
だけど、裁く場では弁護人、裁判長、陪審員は、判っている。
ラスティが、キャスリンに弄ばれた、愚かな男である事を。
「愛人関係」についてさえも “推定無罪” になる裁判というもの。
司法の矛盾を、ネットリとパクラ監督は暴き出す。
このお話が、強烈な閃光を放つのは後半10分。
冒頭の「私は罪を暴くべき検事、司法の僕」というモノローグが
ラストに放つ閃光。
驚愕のラストを迎えた後、流れるエンディングロールを観ながら
最期にもう一度流れるラスティのモノローグに、戦慄を覚えるはずだ。
「犯した罪には、罰を受けなければならない」
パクラ監督は、突き放していたのでなく、突き落としてのだと
再認識を促された裁判映画。
【JOURNEY OF HOPE】 スイス映画 122分 東宝

監督:ザヴィアー・コラー
出演:ネグメットゥン・シバノグル
:ヌル・シュレール
:エミン・シヴァス
1900年アカデミー外国語賞の作品。
この間放映された『キャラクター』オランダ映画も、確かアカデミー賞外国語映画賞、ノミネート作品。
この、アカデミー賞の “外国語映画” にノミネートされた作品群はアカデミー賞の各ノミネートの中でも、
毎年楽しみに注目している。
まさしく、主婦一般人に出来る “世界へ向ける目”
『路』で、トルコ社会への自分の無知さを認識したが、
まだまだ・・・甘い。
トルコの寒村、貧しい暮らしに我慢が出来なくなった、一人の父親が、
従兄弟が送ったスイスからの一枚の絵葉書に希望を託し、
家財や家畜を売り払って、国外脱出を企てる。
連れて行けるのは、彼の妻と幼い末息子だけ・・・。
あとの子供には、とに角再び連れにくる日まで生き延びろ!としか言い様がない・・貧困の社会。
旅費や、仲介料に、思いもかけぬ大金を支払いながらも、
目指すは、夢の地。
働いた分だけ賃金が支払われるという、当たり前のことさえも、
彼らには・・・それが夢。

スイスアルプスを山越えするトルコの人々。
彼らの目には、何が映っていたのだろう。
国境警備隊に見つからぬよう、歩を進める人々が、
最後には助けを求めなければ死んでしまうような・・・辛い辛い旅。
彼らを手引きしたものは・・・・?
「希望」
と答える、父親の瞳が忘れられない。
【VERSO SERA】 伊=仏映画 アルシネテラン/新日本映画社 99分

監督:フランチェスカ・アルキブジ
出演:サンドリーヌ・ボネール
:マルチェロ・マストロヤンニ
マストロヤンニと『イル・ポスティーノ』のマッシモ・トロイージ共演
『BAR(バール)に灯ともる頃』(1989)は、今は亡き人を偲ぶ逸品。
亡き人をしのぶ形でなく、日常にこういう作品がビデオ化される事を希望する。
マストロヤンニは、紛れもなく名優です。
人生も黄昏時を迎えた、老教授ブルスキ(マストロヤンニ)の前に、ある日突然に、
離婚した長男の妻ステラ(ボネール)と孫娘のパペレがやってくる。
愛情にも、人生にも見切りをつけて、余生を過ごすブルスキは、
自分の中に再び芽生える感情と、対峙せざるをえなくなる物語。
前半はおじいちゃんマストロヤンニと、かわいいパペルの触れ合いを、
女性監督らしい柔らかい視線で描き、
中盤から自由奔放に生きようとするステラと、
その気持ちを理解できず、翻弄されるブルスキとの、複雑な感情を
丁寧な心理描写で、観るものを魅了する。
何と言っても、マストロヤンニのこなれて、柔らかい演技は絶品。
どんなに長く生きても、知りえない事がある。
後悔のない人生など、実は誰にも存在しない。

人生の終盤で、自分の新たな一面に直面し狼狽する姿が愛しい。
こう言う作品に巡り合うと、異聞の中に幸せが満ちていく感じがする。
生き続けるのが楽になる。
人生にマニュアルなどないのだ。
【TRULY MADLY DEEPLY】 英映画 106分 ポニーキャニオン
監督:アンソニー・ミンゲラ
出演:アラン・リックマン
:ジュリエット・スティーブンソン『イングリッシュ・ペイジェント』の監督、ミンゲラが、
『ダイハード』のテロリストの親玉ハンス演じた、リックマンとグリナウェイ『数に溺れて』のスティーブンソンを迎え撮り上げた
地味だが、心温まる作品。
英国の俳優の、しっかりした演技は見もの。
ミンゲラは、人間の心の機微を描く事に、かなり大雑把な監督ではあるが
それを補完して有り余る演技がどういうものか少し解る。
ある日突然最愛の人を病気で失ったニーナ(スティーブンソン)
道を歩いてても、人と話してても、愛したジェイミー(リックマン)が忘れられない。
一人部屋に戻っては、彼の形見のチェロを抱きしめる毎日。

そんなある日、なんと幽霊になってジェイミーが戻ってくる。
抱きしめられるし、キスもできる実感ある幽霊。
狂気乱舞し喜ぶニーナ。
ニーナの姉がニーナの甥ッ子に「形見のチェロを譲って」という場面。
ニーナは膝の上に抱いていた、愛しい甥ッ子を無意識に押しやり、代わりにチェロを抱きしめ「無神経よ!残酷だわ」と泣く。
彼女の中の、生と死の対比が描き出せる場面でありながら、かなり大雑把な演出は否めない。
それでも見事な画面構成に、心に残るシーンは、沢山ある。
リックマンとスティーブンソンの演技の的確さと
話自体の持つシンプルだけど力強いメッセージを味わえる
上品で温かな恋の終わらせ方を紡ぐ映画。
【SCREAM OF STONE】 ドイツ=フランス=カナダ映画 106分
監督
:ヴェルナー・ヘルツォーク
原案:ラインハルト・メスナー
出演
:ビットリオ・メッツォジョルノ
:ステファン・グロバッツ
:マチルダ・メイ
:ドナルド・サザーランド
:ブラッド・ダリフこの映画は、南米パタゴニアにある高峰ヤトローレの秘峰に憑かれた登山家の物語。
若きロッククライマー、マーチンはベテラン登山家ロッチャと彼の朋友ハンスと共に、
難攻不落といわれる、ヤトローレ登頂に挑むことになる。
ベースキャンプで、天候を見る事五週間。
今まで2度の失敗をしているロッチャはなかなか踏み切れない。
痺れを切らした、マーチンは、ロッチャの留守を狙いハンスと共に、登頂を開始してしまう。
帰ってきたのは、マーチンだけ。
登頂成功の証拠となる写真は、ハンスと共に雪崩で失ってしまった。
果たして登頂成功は真実か・・・・。

『フィツカラルド』で客船を山越えさせた、ヘルツォークは、
今度は、マーチンを再登頂に挑ませる。
ベテランロッチャも、反対側のルートから、同時に登頂を開始する。
山に憑かれた男たちを通して、山の持つ底知れぬ魅力を、素晴らしいロケーションで映し出して行く。
主人公は、“山”
下界で名声や、権力に右往左往する人間達に、一瞥もくれず、
高峰はくっきりとそびえたっている。
絶景だ!
登頂に成功するのは、どちら?
そして、頂上で待っていたものは・・・・。
『Xファイル』で知名度があがったブラッド・ダリフ。
お久しぶりのマチルダ・マイ、なんでここにいるの?のサザーランド
山の持つパワーを感じ取れる。
【THE BLUE KITE】 中国映画 138分 松竹
監督:ティエン・チュアンチュアン
出演:ルー・リーピン
:ブ-・ツンシン
:チャン・ホン『芙蓉鎮』で、中国映画を簡単に理解してはいけないと肝に銘じてはいたが
この作品は、中国の背負った歴史を知らなくても、
みぞおちにズシンと深く訴えて来るものがある。
勿論1949年の毛沢東が「中華人民共和国」を作り上げてから
自由で開放された庶民の暮らしも、
1957年の「反右派闘争」の社会主義国家形成への混乱で幕を閉じ
その失敗から、再び毛沢東が打ち出した「文化大革命」を
詳しく知っていれば、きっともっとリアルで面白いのかもしれないのだが。

この激動の中国を、生きた一人の女性、樹娟(チュアン)の生き様を
1人息子の鉄頭(ティエトゥ)の目から語る、田壮壮(ティエン・チュアンチュアン)監督の、
痛烈な文革への批判の映画である事は、間違いない。
しかし、1人の平凡な女の目には「普遍な母性」への、追慕に映る。
この凄まじい激動の大陸で、
共和国誕生と同時に、図書館員の夫と結婚。
鉄頭を出産し、やがて来る右派闘争(57)大躍進政策(58)で、
夫を労働改造で失い、その夫を内部告発した同僚と再婚するも、病で失い、
運命は、更に彼女の居場所を、もてあそんでいく。
3人の夫は中国の政局その物。
だけど、チュアンは逆らわない。
そうして・・・従がわない。
政局に躍らされ、義父に不満を募らせる鉄頭を
母の目で、しっかりと片隅に捉えている。
この子のためによかれと思う「想い」は
不安定で、揺れ動く時代の中で、微動だにしない。
従がわないものは「母性」
このどんな時代でも、どんなに辛くても我子を思う思いは
誰にも奪う事が出来ないと映画は締め括る。
冒頭と、ラストに流れる子守唄が、
心に痛い、文革前夜のひとりの母の物語である。